LOGINレインと初めて会った日、雨が降っていた。
春の終わり、夕暮れ前の雨だ。急に空が暗くなって、大粒の雨が石畳を叩き始めた。市場の商人たちが慌てて荷物を布で覆い、客たちが軒下に逃げ込む。エリナは豆のペーストの補充分を届けた帰り道で、雨に降られた。
傘はない。この世界に傘という概念はあるが、庶民が持つものではない。雨具といえば蠟を塗った麻布を頭から被る程度だ。 次は撥水加工の研究をすべきか。 頭が半分そっちへ飛びながら、エリナは近くの軒下へ走り込んだ。先客がいた。
最初は、背中しか見えなかった。 柱に寄りかかって、雨を眺めている少年。年は自分と同じか、少し上くらいだろうか。薄汚れた旅装束に、使い込まれたブーツ。荷物は小さな革鞄一つ。 髪は濡れていた。雨宿りを始めてからまだ間もないらしい。 エリナは少年から適切な距離を取って、壁際に立った。雨が屋根を叩く音が続く。 しばらく沈黙があった。 先に口を開いたのは、エリナだった。別に話しかけたかったわけではない。ただ、気になることがあった。「右の靴底、剥がれかけてる」
少年が振り返った。
目が合った瞬間、エリナは少し面食らった。綺麗な顔をしている——そういう感想ではなく、目の鋭さが異常だと感じた。年齢に似合わない、すべてを計算するような眼差し。でもその奥に、何か燃えているものがある。
「……気づいてた」
少年が短く答えた。声は低めで、感情の起伏が薄い。
「直さないの?」
「修理屋に出す金がない」 「応急処置なら今できる。靴を貸して」少年が眉をわずかに動かした。警戒ではなく、意外そうな顔だ。
「なんで」
「このまま放っておくと完全に剥がれる。雨の日に靴底がない状態で歩くのは効率が悪い」エリナは籠から細い麻紐を取り出した。配達の荷物を固定するために常に持ち歩いているものだ。
少年は数秒エリナを見てから、無言で右足を差し出した。 エリナは剥がれかけた靴底を確認した。接着面が劣化して浮いている。完全には直せないが、紐で外側から固定すれば今日一日は持つ。 手早く結んで、引っ張って強度を確認した。「これで今日は持つ。でも明日には修理屋へ行くこと」
「……ありがとう」少年が静かに言った。感謝の言葉は短かったが、嘘くさくなかった。
雨はなかなか止まなかった。 軒下に二人で立って、それきり沈黙が続いた。エリナは雨の降り方を観察しながら、止むまでの時間を推定した。雲の厚さと風向きから見て、あと四十分から一時間はかかりそうだ。長い。
暇を持て余して、エリナは少年に視線を向けた。「どこから来たの」
「王都から」王都。エリナの目が少し細くなった。
「王立魔法学院の生徒?」
少年が今度はっきりと驚いた顔をした。
「なんでわかった」
「その年齢で王都から一人旅をしているとしたら、学院の課外実習が一番可能性が高い。それ以外だと家出か旅商人の子どもだけど、荷物が少なすぎる。鞄の留め金が学院の紋章と一致してる」少年が自分の鞄を見下ろした。それからエリナを見た。
「……よく見てる」
「観察は大事」 「どこかで聞いたような言葉だ」 「本当のことだから、どこでも言われる」少年がまた沈黙した。でも今度の沈黙は最初と少し違った。閉じている感じではなく、何かを考えている感じ。
「お前は何をしてる。この町の子どもか」
「商売をしてる」 「子どもが?」 「七歳でもできる」少年の目が少し変わった。値踏みではなく、興味に近い何かが混じった。
「何を売ってる」
「今は豆のペーストと石鹸。次は薬草の加工品を出す予定」 「石鹸……」 少年が呟いた。「ルシェムで最近流行ってると聞いた。子どもの下痢が減って、傷の治りが早くなったと」
エリナは少し驚いた。王都まで噂が届いているとは思っていなかった。
「知ってるの?」
「学院でも話題になってた。治癒魔法師の一人が、ルシェムの衛生状態が改善していると報告書に書いた。原因が石鹸だという説と、たまたまだという説で議論になってた」エリナは雨を眺めながら、それを聞いていた。
思ったより早く広まった。いや——広まること自体は想定内だ。想定外なのは、魔法師の目に留まったことか。「原因は石鹸だよ。手を洗えば、目に見えない小さなものが体に入るのを防げる。それが病気や傷の悪化を引き起こしてるから」
少年が黙った。
長い沈黙だった。雨の音だけがある。「……証明できるか」
「今すぐは無理。でも同じ町で石鹸を使う人が増えるほど、病気が減っていく。それを継続して観察すれば証明になる」 「それは時間がかかる」 「大事なことは大体そうなる」また沈黙。
今度は少年の方から口を開いた。「魔法はどの程度使える」
唐突な質問だった。でもエリナには答えが一つしかない。
「使えない」
「無適性か」 「そう」少年がエリナを見た。さっきとは違う目だった。哀れみではない。純粋な疑問だ。
「魔法が使えないのに、なぜそこまで知っている」
「魔法と知識は別物だから。魔法がなくても、考えることはできる」少年がまた黙った。
エリナは続けた。「あなたは魔法が使えるんでしょう。それも、かなり」
「……なぜそう思う」 「課外実習を一人でやらせてもらえる年齢じゃない。学院が一人で行動させるとしたら、それだけの実力があると判断されてるから。あと——」エリナは少年の手を見た。指先に、ごく薄い魔素の焼け跡がある。魔法を酷使した痕だ。
「——相当な量の魔法を使い続けてる。魔素の消耗が手の指先に出てる」
少年が自分の手を見た。それから、小さく笑った。
笑う人だとは思っていなかった。無口で無表情だと思っていた。だから少し、意外だった。「……よく見える目をしてる」
「さっきも言ったけど、観察は大事」 「俺の名前はレイン」突然の自己紹介だった。エリナは一秒遅れて返した。
「エリナ」
「苗字は」一瞬、間があった。
「アッシュフォード」
レインの目が、わずかに変わった。その名前を知っている——そういう顔だ。五年前に没落した侯爵家の名前は、王都では有名な話だろう。
「……没落した侯爵家の」
「そう。今は平民。でも名前は捨ててない」
レインがまた黙った。今度は違う種類の沈黙だった。
エリナは雨を見た。少し弱くなってきた。あと二十分もすれば上がるかもしれない。 沈黙が続く間、エリナは頭の中で今日の作業を整理した。帳簿の更新、次のロットの仕込み、マルタへの連絡。やることはいつも多い。 でも不思議と、この沈黙は不快じゃなかった。 マリオといる時の賑やかさとは全然違う。でも居心地が悪いわけじゃない。お互いに必要なことしか喋らない、という空気が妙に自然だった。「石鹸を、一個もらえるか」
レインが言った。
「買うの?」
「ああ。学院に持って帰って、魔法師に見せたい。組成を調べてもらう」
エリナは少し考えた。組成を調べられると製法が知れる可能性がある。でも——魔法師が石鹸の仕組みを解析して広めてくれるなら、それはむしろ歓迎だ。知識は独占するより広まった方がいい。
「八ルシェ」
「持ってる」レインが鞄から銀貨を出した。エリナは籠から石鹸を一個取り出して渡した。
レインが石鹸を手のひらで転がして、匂いを嗅いだ。「次は何を作る気だ」
「薬草の体系化。この辺で手に入る薬草を分類して、効果を整理して、使いやすい形にする。膏薬と、飲み薬と、消毒液」 「消毒液?」 「傷を洗う液体。石鹸より直接的に傷口に使える」レインがまたエリナを見た。
「……魔法がなくても、治癒と同じことができると思ってるのか」
「同じじゃなくていい。魔法の治癒は速い。でも魔法師が全員に使えるわけじゃない。魔法がない人間の方がずっと多い。その人たちが自分で傷を手当てできる方法があれば、それで十分」レインが石鹸を鞄にしまいながら、静かに言った。
「合理的だ」
「褒めてる?」 「事実を言ってる」エリナは小さく息を吐いた。
この人は言葉が少ない。でも少ない言葉の中に、余計なものが一つも入ってない。 それは悪くないと思った。 雨が上がったのは、それからしばらく後だった。 雲の切れ間から夕陽が差して、石畳が濡れた金色に光った。 レインが先に軒下を出た。少し歩いてから、振り返った。「また来るかもしれない」
「いつ?」 「わからない。でも——消毒液とやらができたら、見せてくれ」 「できたら売る。八ルシェより高くなるけど」レインが、また小さく笑った。今度ははっきり見えた。口の端がほんの少し上がる、それだけの笑い方。
「買う」
それだけ言って、歩き出した。
エリナはその背中を見ていた。 薄汚れた旅装束。右の靴底に巻いた麻紐。小さな革鞄。 変な人だ。 でも不思議と、また会う気がした。根拠はない。ただの直感だ。エリナは前世で学んだ。直感というのは、無意識の観察が積み重なった結果だ。根拠がないように見えて、実は全部見えているものから計算されている。
だからこの直感も、きっと正しい。
濡れた石畳を踏んで、エリナは家路についた。 籠の中の麻紐が一本足りなかった。それだけが、今日レインと会った証拠だった。物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運
ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。 今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』 エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」 フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。 余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』 ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」「正解です」 ゴードンが静かに頷いた。 翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。 服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」 ゴードンが封筒を差し出した。 「ダリウスの件についてですか」「そうだと思います」 エリナ
レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて
王都から戻って一週間が経った。 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。 完成までにあと十日ほど。 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。 炭で大きく書かれた名前が、三つ。 マグダ・トーラン(ヴァロウ町) ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」「人柄は?」「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」 マリオが指で名前を叩く。「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」「もう一人は?」「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」 エリナは三つの名前を、じっと見た。「三人とも、人物像が違うね」「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」「いい判断」「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」「ちゃんと相談したのが、いい判断」「言い方」 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。「順番は?」「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」「じゃあ、明日出発
ルシェムへ戻る道は、来た時とは少し違って見えた。 同じ街道、同じ宿場町、同じ景色。 なのに、馬車の窓から見える木々の色も、すれ違う旅人の顔も、どこか違って感じる。 変わったのは景色じゃなくて、自分の方なんだろうな。 エリナは、膝の上で軽く手を組みながら、そう思った。 王宮で何を語ったか。国王とどんな約束をしたか。フィオナを王都に残してきたこと。レインと交わした、ささやかな約束。 その一つ一つが、自分の中の重心を少しずつ動かしている気がした。「眠くないか?」 馬車の中で、向かいに座るゴードンが声をかけた。 今、馬車にいるのはエリナとゴードンの二人だ。レインは王都の郊外で別れ、学院へ戻った。フィオナは王都に残っている。「眠くはない」「考えごとですか」「整理してる」「無理はなさらず」 ゴードンは短く言って、また黙った。 この男の沈黙は心地よい。必要な言葉だけを置いて、あとはそっとしておいてくれる。 エリナは膝の上の革鞄を軽く撫でた。 中には、王宮からの正式な書状の写しと、フィオナとレインに書いた最初の手紙の下書きが入っている。 ルシェムに着いたら、すぐに動かないと。 頭の中で、もう次の段取りが回り始めていた。 ルシェムの町が見えてきたのは、二日目の夕方だった。 石壁とも呼べないような低い土塀。古びた門。市場の端に立つ木製の看板。王都の壮大な城壁を見た直後だと、すべてが妙に小さく、けれど不思議と懐かしく感じられる。 ハンスの息子のマリオが、町の入り口で待っていた。 馬車を見つけた瞬間、彼は手を大きく振った。「エリナーっ! ゴードンさんっ!」 声が、思いきり大きかった。 馬車が止まるのを待たず、マリオは横を走ってついてきた。「ただいま」 エリナが窓から声をかけると、マリオがニッと笑った。「おかえり。なんかすごいことになったって、本当か?」「誰から聞いたの」







